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    Categories: 摂食障害

私と摂食障害 3 *地獄のような日々*

私と摂食障害 1と2を書いてきて、当時の事がフラッシュバックして気分が悪くなりました。

ここまで詳しく書いた事はなかったので、いろいろしんどいです。

でも、一度は書くべきだと思うので頑張りますね。

写真は真ん中が私です。全身は分かりませんが、腕も枯れ枝のようですし、顔もとても小さくなっています。

精神的な緊張感がいかに高かったかというと、手を硬く握り締めていて、知らないうちに爪が手のひらに食い込んで、血が滲むという状態です。

今より何倍も辛かったし、苦しかった。

大学生活も楽しい思い出より、辛い思い出が多いです。

家政科だったので、調理実習は必須科目でした。

本格的な洋食から中華、和食、菓子類、何でも作りました。

作った料理はみんなで食べるのですが、私は一切、口に出来ませんでした。

本当は美味しく、笑って食べたかった。

学食も利用したことはありません。

毎日、母が私が食べられる物だけを使ってお弁当を作ってくれていました。

母の苦労は相当なものだったのは言うまでもありません。

低カロリーの海苔を大量に食べていたので、肌が黄色くなりました。

生命維持の為に、脈も遅くなるんですよ。

身体は何とか死なないように、機能してくれるんです。

こんな私にも、偏見を持たずに接してくれる友人が数人いて、今でもたまに会っています。

大切な友人です。

大学2年の時に、転機が訪れます。

大学の近くの、大きな病院に摂食障害に詳しい医師がいるという事を知り、大学の帰り道に一人で訪ねてみました。

そこで、今の主治医と出会います。

今までの医師とは違い、じっくり話を聞いてくれて、母とは別々に診察してくれました。

過食嘔吐や肥満恐怖、偏った考え方なども決して否定せず、一人の人間として尊重してくれました。

転院を決め、一人暮らしを始めます。

大学の単位を落とさない為には、片道2時間の通学には無理がありました。

自転車で20分のところで一人暮らしを始めます。

初めて親元から離れて暮らす事に不安はありましたが、やってみないと分からないと思っていました。

始めは、何とか自炊もして生活していましたが、自由過ぎて徐々に食べられなくなり、部屋で倒れて、両親が迎えにきます。

この頃が、最低体重でした。

29kgになっていました。

アパートを引き払い、何度目かの入院です。

どうやって、両親は私を病院に連れて行き、アパートの契約や引越しをしてくれたのかは記憶がありません。

両親に電話をして、気がついたら病院のベッドの上で、点滴の針が何本か繋がれていました。

そんな状態にも関わらず、隠れて過食嘔吐をしていました。

20kg台で過食嘔吐すると、心臓が止まりそうになるのが分かりました。

動悸がして、このまま死んでしまうのではと怖くなりなりましたが、相変わらず体重が増える恐怖はありました。

休んでいると太る気がして、点滴をガラガラ引きずりながら、院内を歩き続けていました。

大学は休んでいましたが、このままでは留年です。

その事を主治医に相談すると、なんと病院から大学に通わせてくれたのです。

本当に感謝しかありません。

少し状態が良くなり、退院し実家に戻りました。

20歳になっていました。

無理だと思っていた成人式もできました。

祖母が振袖や帯を買ってくれて、家族で写真も撮り、親戚にも挨拶に行く事ができました。

やはり家族には感謝しかありません。

大学4年になると、卒論だけで、ほとんど大学には行かなくなり、家で卒論を書く毎日でした。

周りのみんなは、就職活動に忙しそうでしたが、この状態では就職は出来ないので、ひたすら卒論を書きました。

家族と主治医のおかげで、留年も中退もせずに卒業できたのです。

母のおさがりの着物を着て、袴姿で卒業式に出席出来たのは、嬉しかったです。

摂食障害の方はあまり、良くはならず、体重も32kgでしたね。

この頃、過食嘔吐する時は、母屋ではなく、倉庫でしてくれと言われ、隔離されます。

過食嘔吐で疲れ果てて、倉庫で眠ってしまう事もありました。

近所の人に、見られると、家業に悪影響だから、近所を歩くなと言われます。

姉は私がいるから、家には帰りたくないと言って実家を出て行きます。

父は私と食事をしなくなりました。

母は私を生まなければよかったと言いました。

私のせいで家族はバラバラになっていきます。

私と摂食障害 4 に続きます。

 

 

 

sachi07: